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    沖縄レポート/平和教育に重い課題/チビチリガマ損壊事件

     読谷村のチビチリガマの内部や入り口が少年4人によって損壊された事件は、沖縄県民に強い衝撃を与えた。

     9月12日に発覚した時点では、30年前に入り口にあった「世代を結ぶ平和の像」が右翼団体員によって破壊された事件を思い起こし、新基地建設などに抵抗する県民へのデモンストレーションの可能性が議論された。30年前の事件と合わせ「85人の犠牲者は3度殺された」と関係者は嘆き、憤った。

     その3日後、村外に住む16~19歳の4人が逮捕された。「心霊スポットでの肝試し」だったと報じられ、新たな衝撃が広がった。なぜ内部の損壊まで至ったのかなど明らかになってはいないが、3度蹂躙(じゅうりん)されたことに変わりはない。

     

    ●ガマでは強制集団死

     

     チビチリガマは沖縄戦の悲劇を象徴する現場の一つである。太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍は1945年4月1日、現在の北谷町、嘉手納町、読谷村の海岸部から上陸した。本島北部に疎開していた人たちもいたが、地域に残っていた人の多くは、沖縄で「ガマ」と呼ばれる自然壕に隠れた。チビチリガマもその一つだ。

     約140人が避難していたこのガマに4月2日、米兵がやって来て投降を促した。恐怖にかられた住民らはガマの奥に集まり、毒薬注射や家族で包丁などを使って殺し合うというむごたらしい集団死が起きた。

     このような事件は沖縄各地で起き、犠牲者数は「沖縄県史」に記載されているだけで824人に上る。戦後、「集団自決」と呼ばれる。しかし、乳幼児の命まで奪われた事件を「自決」と言うべきではなく、日本軍によって強制されたものとして「強制集団死」と主張する研究者もいる。「沖縄県史」や地元紙は「集団自決」(強制集団死)と並記している。

     

    ●非戦と祈りの場に

     

     チビチリガマの事件は戦後、タブーとなり、生存者は長く口を閉ざしてきた。80年代になって地元の青年たちが事実の掘り起こしに乗り出し、全容が明らかになった。87年には彫刻家の金城実さんと住民らにより平和の像が造られ、内部は墓所として出入りを制限し、非戦、平和の誓いと祈りの場、平和学習の場となってきた。

     そのチビチリガマで、内部に残されていた遺物や遺骨まで破壊された。犯行は10日午前という。少年らの心理・動機に関心が集まる一方で、この場所で何が起こり、どのような場所なのかを少年たちが知らなかったと報じられていることにも驚きと困惑が広がっている。事件は、平和教育、地域教育に重い課題を突き付けており、解明に伴ってさまざまな議論を呼ぶことになるだろう。(ジャーナリスト・米倉外昭)