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    〈働く・地方の現場から〉紛争地を取材する意味とは/ジャーナリスト 東海林智

     2015年6月にシリアで拘束されたジャーナリスト、安田純平さん(44)が40カ月に及ぶ拘束から解放されてから1カ月余りが過ぎた。安田さんは帰国直後から、ネットを中心に激しい「自己責任」バッシングにさらされた。

     このバッシング、04年にイラクで高遠菜穂子さんら3人が人質となった際の「自己責任」たたき以降、人質事件に限らずありとあらゆる場面で登場することになった。こうした動きに対する分析は別の機会に譲る。今回は、なぜ安田さんが危険を覚悟で紛争地で取材をしてきたのか、自分の、少ない紛争地での取材体験から考えてみたい。

     

    ●旧ユーゴの内戦を取材

     

     20年以上前になる。旧ユーゴスラビアの内戦を取材に行った。自分は語学も不得手なのだが、体力だけを見込まれて、当時の上司に指名され、セルビア、クロアチアを中心に約2カ月取材して回った。地雷の埋まっているところを歩いたり、警察や軍、地方の軍閥に拘束されそうになったりしたのも一度や二度ではなかった。

     取材当時、セルビアは世界の悪者だった。内戦相手のクロアチアは米国の広告会社を使って自らの〃正しさ〃をアピールすることに成功。民族浄化など非道の限りを尽くすのは体制にしがみつくセルビアとされた。多くのメディアがクロアチア側から報道、セルビアで長期取材する者はそう多くはなかった。

     

    ●メディアが唯一の窓

     

     そんな中、内戦で住居を追われ、夫や肉親を亡くしたセルビアの難民女性たちを2週間ぐらい取材した。彼女たちは「私たちは世界から忘れられていると思っていた。話を聞きに来てくれてうれしい」「東の端の国から会いに来てくれてありがとう。私たちはここにいる」……そんな言葉を何度も聞いた。

     セルビアにもクロアチアにも難民はいて、同じように民族浄化の迫害を受けていた。全財産を奪われる、性暴力の被害に遭う、長年付き合ってきた親友に「民族が違う」と拒絶される……。みながぎりぎりの命を生きていた。だが、セルビアの難民は世界から「なかったこと」にされそうになっていた。

     彼女たちは必死に私に話した。つらい話を泣きながら、それでも話すのをやめない。「親子が殺し合うような戦争はもうたくさん」「私は最後まで人間でありたい」。悪者とされたセルビアで、人々にとって、海外から来るメディアは世界へつながる唯一の窓だった。危険な場所には、話を聞いてほしい人たちがいる。何が起きているのか見てほしい人たちがいる。伝わらなければ、救援さえままならない、なけなしの命を生きている人々が無数にいる。

     

    ●安田さんの帰還を喜ぶ

     

     新聞労連は「安田さんは困難な取材を重ねることで、日本や国際社会に一つの判断材料を提供してきた。安田さんの解放には民主主義の基盤となる『知る権利』を大切にするという価値が詰まっている」との声明を出した。バッシングに対するジャーナリズムの答えだ。

     取材地へ死ぬ気でなんか行かない。生きて帰って来なければ仕事を果たしたことにならないから。だからこそ、安田さんの帰還を心から喜びたいと思う。

     セルビアで夫、息子、孫、きれいな庭、家、車すべてを内戦で奪われた80歳の女性の話を2時間聞いた。泣きながら、詩を語るように悲しみを語った。別れ際、彼女は僕にキスをした。「おばあちゃんのキスなんて嫌だったかしら。ありがとう、今夜は眠れそうよ」と、とびきりの笑顔を見せてくれた。