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    〈原水協などの世界大会・国際会議〉「あの日」の惨状繰り返させない/被爆者が訴え/「核兵器廃絶が唯一の道」

     被爆75年の今年の原水爆禁止世界大会は新型コロナウイルスの感染拡大により、オンラインでの開催となった。8月2日、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)などの実行委員会が開いた国際会議で、児玉三智子・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長が自らの被爆体験について語った。発言(要旨)を紹介する。

     

    ●75年たっても消えず

     

     「あの日」、投下された原子爆弾によって初めて核戦争の被害を受けた被爆者です。1945年8月6日広島、9日長崎に投下された原爆は瞬時に二つの街を破壊し、多くの命を無残に奪い、かろうじて生き残った被爆者も放射能の後遺症で次々と亡くなっていきました。原爆は人として死ぬことも、人間らしく生きることも許さなかったのです。

     奇跡的に生き延びた被爆者は「自分だけが生き残った」という罪悪感と、脳裏に焼き付いた「あの日」の地獄の光景、声、音、臭いを抱きながら、その後の生活苦、世間の偏見や差別と闘わなければなりませんでした。75年たった今も「あの日」が消えることはありません。

     1945年8月6日、私は学校で被爆しました。当時7歳、国民学校の2年生でした。午前8時15分、突然、ものすごい光とともに天井の梁(はり)が落ち、窓ガラスが破片となって飛び散り、教室の壁、机、そして私の体に突き刺さり、私は気を失いました。

     迎えに来た父に背負われ帰宅する途中、この世の地獄を目にしました。焼けただれ皮膚がぶらさがっている人、炭のようになった赤ちゃんを抱いたやけどしたお母さん、眼球が飛び出している人、はみ出した内臓を抱えた人たちが逃げまどっていました。「水をください、水を」と、すがりつく人たちを父や私はどうすることもできず、自宅に急ぎました。

     爆心地から3・5キロ離れたわが家に、いとこたちが変わり果てた姿で身を寄せてきました。焼けただれた背中から足まで化膿(かのう)し、そこにうじがはい回り、一人、また一人と亡くなりました。軽傷だったいとこも血の塊を吐き、逝きました。

     その後も原爆は容赦なく、私を苦しめ続けました。就職や結婚の時、「被爆者」というだけで偏見や差別を受けました。そして2011年に娘の命を奪い、17年には2人の弟も亡くなりました。悔しさと寂しさでいっぱいです。原爆はどんなことがあろうとも許すことはできません。

     

    ●核兵器禁止条約は喜び

     

     私たち被爆者は世界の誰にも地獄の苦しみを味わわせてはならないと、再び被爆者をつくるな、核戦争を起こすな、核兵器なくせと、国の内外に原爆被害の実相を語り、訴え続けてきました。17年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択されたことは、被爆者にとって大きな喜びです。いま、核兵器廃絶への重い扉が開かれようとしています。

     唯一の戦争被爆国の日本政府には核兵器禁止条約に署名、批准し、核兵器廃絶に向けて世界の先頭に立つよう、核兵器に依存する政策の転換を求めます。

     被爆者は平均年齢83歳を超えました。残された時間は多くありません。核兵器が存在する現在は、明日にでも、「あの日の朝」の惨状が起き得ます。核兵器は廃絶しかありません。